岡山県瀬戸実業高校時代
(創立時代)
大正15年4月〜昭和10年8月
 明治末から大正初期にかけて、旭東地区の産業は農業が主体であった。
 多くの先覚者達によって導かれつつ、米麦を主体に果樹、養蚕、畜産などを加え幅広い発展を続ける中で、その担い手となる農村青年に実業教育を行うことが必要となってきた。
 瀬戸町が中心となり高陽、高月、西山、潟瀬の各村は実業教育推進に協力、農業中心の実業学校設立に努力した。
 当時の郡視学、森郁四郎氏の主唱により多数の有識者の共鳴を得て、大正15年3月31日に組合立補習教育瀬戸実業学校の設立が認可された。
 続いて4月に、森郁四郎氏が初代校長事務取扱となり、専任教師2名兼任3名で、岡山県瀬戸高等女学校などの一部を借りて授業が開始された。
 更に地域にとどまる青年達の教育のため、瀬戸青年訓練所を併設した。
 9月に瀬戸町下に新校舎が完成(現、瀬戸町健康福祉の館)し、10月に開校式を行った。
 以来、昭和44年6月30日の全学移転まで44年間、この地でその歴史を歩むことになった。
 昭和5年1月、柴部壽男氏が校長となり、6年6月には生徒の協力を得て、宿泊指導施設自彊寮を完成させた。
 自彊寮では、宿泊当番制を採用し、生徒8名が4日間交替で農場運営と協同生活 による人間性も含めた資質の向上を図った。
 昭和10年、募集定員50名、修業年限3年の農業と園芸を中心とした岡山県瀬戸農芸学校に昇格し、瀬戸青年訓練所は廃止された。




岡山県瀬戸農芸学校時代

(瀬戸農芸高校と県営移管時代)
昭和10年9月〜昭和23年3月
 昭和10年9月、岡山県瀬戸農芸学校として改めて開校式などの記念行事を行い、旧実業学校の生徒はそれぞれの学年に移行した。
 日本は満州事変から日中戦争へとすすみ、昭和16年12月8日には太平洋戦争へ突入した。
 戦時体制はしだいに強化されていき、学徒動員令が出されて勉学を続けられなくなってきた。
 本校生徒は、食糧生産のために、児島干拓地の藤田農場や近隣の農家へ勤労奉仕として動員され、農地拡大の開墾などでの実習が連日続けられた。
 また、厳しい軍事教練や行軍も随時行われた。
 学業なかばで志願して、少年航空隊予科練習生や陸軍に入隊するものもいる中で卒業生の多数が戦死した。
 戦局は更に厳しく、食糧生産体制も日増しに強化された昭和19年4月1日、県営に移管され、国民学校卒業男子で修業年限4年、募集定員100名の岡山県立瀬戸農芸学校となった。
 翌年4月より女子に対しても農業教育を開始した。





岡山県瀬戸農芸高等学校時代
(学制改革時代)
昭和23年4月〜昭和24年8月
 昭和20年8月15日、日本は敗戦を迎えた。
 時に農家も戦争の犠牲が大きく、男子の働き手は徴兵され、農具、肥料も極度に不足し、食糧確保が社会の最大課題となってきた。
 その上、アジア諸地域から復員、引き揚げ者による人口増に併せて、生活の貧窮で、餓死するものも続出した。
 このため都市、農村を間わず、全国民が血まなこで空地を求めて食糧生産に取り組んだ。
 このような情勢のため農業教育の重要性は一段と増し、女子農業教育の拡充や修業年限の延長などがはかられた。
 卒業生の多くは、農政の振興にあわせて、農業自営者や農業指導者として食糧生産に励んだ。
 また、昭和22年に出された教育基本法・学校教育法に基づいて教育改革が行われ、本校でも制度改革がなされた。
 昭和23年4月1日、岡山県立瀬戸農芸高等学校と改称し、さらに高校再編により、昭和24年8月31日、瀬戸高校と合併して岡山県立瀬戸高等学校南校舎となり、主な学校行事は合同ですることになった。
 昭和25年3月19日午前4時半、火災によって本校は主要な建物の約320坪を消失した。
 女子部は近隣の各高校へ吸収移行されたが、男子は応急の対策のもとに苦しい学業を続けた。
 しかし、県下各高校及ぴ県、地元関係者などから支援を受けて、翌年8月に延べ2,245坪の2階建て普通教室を新築再建した。
 引き続き再建発展の努力を重ねつつ、一方では近代化にも取り組んだ。
 そのような中、昭和28年4月1日、瀬戸高等学校南校舎から岡山県立瀬戸農業高等学校として独立した。




岡山県立瀬戸高等学校南校舎時代

(砂場農場・新校舎建設時代代)
昭和24年9月〜昭和27年3月
 昭和20年代後半になって、社会は次第に落ち着きを取り戻し、農業も主食中心から商品作物の生産へと移行していった。
 旭東地区では果樹栽培を中心とした園芸や酪農を中心とした畜産が著しく発展し、県下の農業先進地となった。
 これを背景に、昭和28年、本校では更なる飛躍のため、農業教育推進にふさわしい地を求めて全学移転を決定した。
 地元農家の理解と協力により、同年12月、当時の上道郡上道町砂場に70aの用地を手に人れることができた。
 また、この土地を中心に約11年間にわたって用地取得の努力が続けられ、昭和39年からは新校舎の建設が始められた。
 昭和40年5月、本校初の鉄筋3階の理科棟が完成し、続いて昭和44年春までに12教室を備える教室棟、管理棟、格技場などが完成し、同年6月末には全学が瀬戸町沖に移転された。
 この間に地域農業の発展に即応した農業教育を推進するため、昭和30年4月、農業科に農業と園芸の2コースを設けた。
 更に、昭和32年4月には園芸科を、また、昭和37年4月には畜産科を新設し、園芸科2クラスを果樹コースと野菜コースに分け、より専門的な指導の充実をはかった。





岡山県立瀬戸農業高等学校時代

(新校舎整備時代代)
昭和28年4月〜昭和59年3月
 昭和44年6月30日をもって瀬戸町下の校門は閉ざされることになった。
 そして瀬戸町沖に10余年かけて建設された近代的新校地に全学の移転を完了した。
 翌7月1日より新しい学舎での授業が始まり、以後、施設・設備の充実がはかられた。
 昭和50年には創立50周年記念式典が行われると同時に、体育館が新築された。
 庭園・道路の整備もはかられ、新学園にふさわしい環境づくりが進んだ。
 しかし、昭和40年代から50年代にかけて、日本経済が飛躍的に発展する一方で、農業の比重は相対的に低下し、生徒の応募者がしだいに減少してきた。
 そのため、本校では「基本問題調査研究委員会」を設けて、農業の現状をふまえて、それに対応した農業教育の充実に努めた。
 また、生徒に活力を与え、自信と誇りをもたせるための自主活動を積極的に推進し、農業クラブ活動、生徒会活動などにおいて著しい成果をおさめるようになった。
 昭和58年には県立高校再編整備に伴い、瀬戸高等学校の家政科が廃止され、本校に、家庭に関する学科として特色ある、栄養類型と保育類型をもつ家政科を設置することが決定し、家政科棟建設工事が始められた。





瀬戸南高等学校時代

(砂場農場・新校舎建設時代代)
 昭和59年4月1日、創立以来本校の代名詞として名実ともに親しんできた「農業」の2文字を「南」と置き換え、校名を岡山県立瀬戸南高等学校と改称し、新しい時代を迎えた。
 募集定員は農業科40名、園芸科80名、畜産科40名に新たに家政科90名が加えられた。
 昭和58年の家政科設置決定以来、家政科実習室の建設が始まり、59年に教室棟を含めた家政科棟が完成した。
 また創立60周年を記念して記念館が完成した。
 校名変更以来12年、昭和の歴史と共にあゆんできた本校も昭和から平成へと時代が移る中、多様な変化を送げてきた。
 平成4年には学科改編に伴い、農業科と畜産科を発展的に解消して生物生産科1クラスを新設、園芸科も園芸科学科2クラスとして、家政科2タラスと共に新たなスタートをきった。
 また、生物生産科は飼育コースと栽培コースに分かれ、園芸科学科は果樹園芸類型とハイテク園芸類型に、家政科は福祉類型と保育類型に2年次より分かれ、時代の要求に応えるものとして、それぞれ特色をもたせている。
 この間、運動場が南に拡張された他、農場においても農業管理実習棟(新産振棟)、馴化温室、農業実習棟、生物生産総合実習室(牛舎)などの施設が新築整備された。
 また70周年を記念し、同窓会を中心に、各方面から協力を得て、生徒の宿泊施設を備えた同窓会館(桃源会館)が完成した。




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